不思議を科学する

不思議を科学する

遠くの灯が付いてこないのに月が付いてくるわけ

 子供がまだ幼稚園生くらいだったころ、ドライブをしている車の窓から月が見えていました。子供が月を見ながら「月が付いてくる」と不思議そうに言ったのを覚えています。車が止まれば月も止まり、車が動き出せば月も動き出すように見えたのでしょう。

 南の空高くに月が出ているとき、月を見ながら暗い夜道を歩くと、自分が歩く方向に月が付いてくるように感じます。歩みを早めると月も早く動きます。しかし月と同じようでも遠くに見える家の灯では、見ながら歩いても付いてくるようには感じません。

なぜ遠くの灯が付いてこないのに月が付いてくるように見えるのでしょうか。

 止まっているものは歩くと後ろへ遠ざかっていきます。付いてくるものは、歩いても遠ざかりません。遠くのものは歩いてもほとんど後ろに遠ざかりません。近くにあるものが遠ざからないと付いてくるように感じます。

付いてくるように感じるための条件は二つあって、歩いても遠ざからないことと、近くにある(いる)ことです。

 遠くの家の灯は、遠くにあるように見えるのでついてくるようには感じません。地平線近くの月は、遠くの山の向こうに出ているように見えるので、付いてくるように感じません。近くの灯は歩くと後ろに遠ざかるので付いてくるように感じません。

 『名月を取ってくれろと泣く子かな』(小林一茶)の俳句のように、空高くに出ている月は近くにあるように感じます。屋根の少し上にあるかのように見えます。

南の空高くに出ている月は近くにあるように見えますが、実際は遠くにあるので、歩いても遠ざかりません。南の空高くに出ている月は、近くあるように見えかつ遠ざからないので、付いてくるように感じるのです。

 これも錯視の一種です。動いていないのに動いているかのように感じる錯視はこれ以外にもあります。隣に止まっていた電車が動き出すと、自分が乗っている電車の方が動き出したかのように感じます。それから、二つの灯が暗い中で交互に点滅を繰り返すと、一つの灯が左右に動いているかのように見えるというのもあります。この錯視は仮現運動を呼ばれています。

 たくさんの錯視が図形や立体で作られています。今でも新しい錯視図形が考え出されていて、中には自分の目を疑いたくなるようなものもあります。身の回りで起きる動きに関する錯視は子供のときから経験しているので驚きはありませんが、何か不思議です。